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太地町の捕鯨文化 – 受け継がれる伝統と歴史

鯨とともに歩んだ町・太地


和歌山県の太地町は、日本の捕鯨発祥の地として知られ、古くから鯨と深く関わりながら発展してきました。かつて人々は、浜辺に打ち上げられた鯨を「海からの贈り物」として大切にし、その肉を食べ、皮や骨、ひげを道具の材料として活用していました。やがて、生活をより安定させるため、地域の人々は自ら鯨を獲る道を選び、本格的な捕鯨へと乗り出しました。江戸時代に入ると、太地町では独自の捕鯨技術が確立され、地域を支える一大産業へと発展していきました。



古式捕鯨の発展と技術


太地町における捕鯨は、熊野水軍の流れを汲む人々の高度な航海技術や組織的な戦術を基盤として発展しました。江戸時代初期には、網で鯨の動きを封じ込め、銛で仕留めるという「古式捕鯨」が確立され、船団を組織して大規模な捕鯨が行われるようになりました。この捕鯨方法は、最大で500人以上の人々がそれぞれの役割を分担し、一体となって作業を進めるものでした。鯨の到来を見張り、合図を送る「山見(やまみ)」、鯨を囲い込む「網舟(あみぶね)」、銛を打つ「羽差(はざし)」、捕獲後の運搬を担当する「持双舟(もっそうぶね)」など、多くの専門的な役割が存在し、極めて高度な組織的操業が行われていました。


また、捕獲した鯨は無駄なく活用され、その解体や加工も非常に緻密に行われました。解体を担当する「鯨始末係」は、鯨を引き揚げるために轆轤(ろくろ)を回す“頭仲間(かばちなかま)”、解体を担う“魚切(うおきり)”、骨や皮などを煮詰めて鯨油を採取する“採油係”などに細かく分業され、総勢80名以上が作業に携わりました。鯨肉の大半は塩漬けにして出荷され、ヒゲや筋は道具の素材として利用されました。また、採油後の骨や血液の粉、胃の内容物まで肥料として活用されるなど、鯨のすべてを余すことなく利用する文化が根付いていました。



捕鯨文化が息づく町


江戸時代には、捕鯨によって得られる利益が町の経済を大きく支え、一頭の鯨が捕れることで「七郷が潤う」とまで言われました。特に、1681年(天和元年)には年間95頭もの鯨が捕獲され、6,000両を超える莫大な利益を生み出したと記録されています。この繁栄の様子は、井原西鶴の『日本永代蔵』にも描かれ、太地町には多くの漁師が住み、船の数も多く、鯨の骨で造られた巨大な鳥居まで存在したと伝えられています。


こうした歴史を持つ太地町では、現在も捕鯨文化が深く根付いており、鯨に感謝を捧げるさまざまな祭りや伝統芸能が受け継がれています。飛鳥神社の「お弓祭り」や塩竈神社の「せみ祭り」では、鯨を象徴する「せみ」(セミクジラを模した縁起物)を的に見立て、豊漁や航海の安全を祈願する儀式が行われています。また、「河内祭(こうちまつり)」では、かつての捕鯨船を模した「鯨舟」が豪華に装飾され、町を練り歩く様子が見られます。さらに、捕鯨の大漁を祝う「鯨踊」は、太地町や新宮市で受け継がれ、現在でも多くの子どもたちが学び、神事や祭りで披露されています。その一糸乱れぬ動きは、かつての鯨との激しい闘いを彷彿とさせ、郷土芸能として今なお大切にされています。



未来へつなぐ捕鯨の歴史


太地町には、捕鯨の歴史を後世に伝える施設や遺構が数多く残されています。「くじらの博物館」では、太地の捕鯨の歴史や文化を学ぶことができ、実際に鯨の生態を観察することもできます。また、町内にはかつて捕鯨が行われていた山見台の跡や、捕獲した鯨を引き揚げた浜辺の遺構が点在し、往時の勇壮な捕鯨の様子を偲ぶことができます。


さらに、太地漁港周辺には、捕鯨によって栄えた集落の面影が今も残されています。町全体を取り囲む石垣や、かつての集落の入口にあった「和田の岩門(せきもん)」などは、地域が一つの共同体として捕鯨に取り組んでいた証です。江戸時代以降、この地域の産業と文化の根幹を成してきた捕鯨の歴史は、現在も町の人々の誇りとして受け継がれています。

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